Whatever Will Be, Will Be

易学に明るい知人に「島田さんは役割と使命が一致しているから、陽転していますね」と言われました。自分のリズムから外れて、役割と違うことをしていると逆に陰転していき、良くないことが続くそうで。確かに自分の人生、会社のこれまでの歩みを振り返っても紆余曲折あったとはいえ、望んで描いた方向に進んでいるという実感があります。

失敗はしても立ち止まりはしない。間違えはしても道を外しはしない。泥水をすすりながらも先の景色を観たいから一歩一歩と前進してきました。歓喜の味を知っているからです。

役割と使命を一致させる

という力強い心がけはあまりないのですが、一貫している立場としては、

そこにリアリティがあればOK

というスタンスです。なんとかなるさというと楽観的に映るかもしれませんが、思考に囚われてエネルギーが漏電し、リアリティがなく空疎になるくらいならば自分自身のテーマを全うすること=自分に嘘をつかないことを大切にしています。もちろん周りにも推奨しています。リアリティを持って生きることは個人に限った話でもありません。

組織においても社会における役割があるもので、法人というくらいですから、そこには表情も人格もあるのです。当然、フェイクもリアリティも混在します。ゴーストカンパニーという意味ではありませんよ。潔くペーパーだけの幽霊のように漂っているならまだしも肉体性を帯びた会社でありながら実体不在であることこそ罪深いことはありません。フェイクで固められた組織だといずれメッキは剥がれるので、いつか誰かが後片付けをしなくてはいけません。大体が弱者に皺寄せがいきますが、残骸処理ほど虚しいものはありませんからね。それならまだ初めからダミーでいてくれよと嘆く人も多いでしょう。会社においてもリアリティの追求は必須なのです(ブランディングという安っぽい概念に騙されてはいけません)。

会社においてリアリティを追求するときに、一番重要なことは「嘘のコスト」の見極め。人生に何も寄与することのない嘘のコストにまみれた組織は腐敗が進んでいきます。誰かの勇気がないためにやらなくてはいけない雑務、押し寄せられ回ってきた無意味な仕事。各自が持ち場で誇り高く仕事を全うしていたらこんなコストは生まれていないのに、、、という嘆きはよくみかけます。何をコストとみるのか、リスクとみるのか、チャンスとみるのかは、それこそ世界をみているフィルター次第でありますが、どんな記号で表現されようとそこにリアリティがあるのかという視点で見極めたら本質から外れることはありません。会社においても個人においてもリアリティの濃度をチェックするとよいでしょう。

そうは言ってもなんとかなるもので、先送りにしてその場を凌ぎながら取り繕ってきた組織は多いのですが、社会が今までのように許容できなくなってきましたよね。もう無理、庇いきれない!自分でなんとかして!というのは地方と中央だけに限った話ではなく、私たち一人一人にも投げ掛けられている暗黙の声なのです。誰かが言わなくてもいつかは退場させられてしまう、、、それはリアリティの欠如と嘘のコストオーバーが真因であることがしばしばあります。辛くても厳しくても自分の足で歩まなくてはいけない時代なのです。

PS)

そういえば、易学に明るい友人に「島田さんは勝負事にも強い」と言われたのですが実感はありません。目の前の勝負の勝ち負けより時代の行く末の方に関心があるからかもしれませんね。

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