rules and wisdom

進化競争上の話です。最も優れていた種は身内には極めて協力的で、余所者には厳しい種。あのピーター・ティールは「偏狭な利他主義」と呼びます。一方で、集団内の入れ替わりが激しい時は「寛容な利己主義」が最も優れているそうです。

「偏狭な利他主義」か「寛容な利己主義」のどちらかの戦略をとった種が生き残ってきたというデータがあります。原始人の死因の3分の1は他人から殺されてきたという最近の考古学の研究結果もあるそうです。我々の祖先は人から身を守る必然性があったのです。

こうして掟が自然と出来上がっていきました。話し合いなどしていると、遅れが生じるためです。やがて掟は暗黙の了解、常識と呼ばれるようになります。

ルール:暗黙の了解、空気、村人証明書

太古の昔は血、肉親を“信頼”していました。少し歴史が進んで、40万年前は仲間・友達・パートナーを信頼するようになりました。まだ人対人の信頼関係です。ここから時代が進み、今から15万年前には集団生活から常識やルールが誕生したと言われています。他の集団との接触が増え、緊張やリスクが生まれたためです。(ちなみに15万年前から私たちの脳は進化してないそうです)

人間が人間を制御するのではなくルールが制御する「人対ルール」の営みが自然となりました。人は昔から、小さなコミュニティを作り、その中で生きてきました。コミュニティ=村と言い換えても良いでしょう。ここで押さえておきたいのは、

コミュニティごとにルールや生活様式すら違ってくる

ということ。他所の村からみたら、なにそれ?というルールもあるけど守らないと村八分にされるのです。言い換えれば、ルールに従って生きると生き方が変わるとも。生活様式が違う、、、つまり私たちはコミュニティの生活様式が違うことを前提に戦略を練らなくてはいけなくなったのです。

我が村はこのルールでいくぞ!という長老の号令にもと、「うちはこういうルールでやってます」が普通になった。正しさはルールに依存します。客観的に何が正しいかではなく、ルールを遵守しているかどうかなのです。良し悪しの基準もルールに準じます。客観的な善悪でなく、村のルールに従うかどうかの善悪。そこで信頼できる人間かどうかをジャッジされます。

ルールが正しいかどうかを判断する方法。

アリストテレスによるとそのルールが正しいかどうかを判断する方法は、その住人(村人)に支持されているルールかどうか
ということ。長老の価値観でルールの良し悪しが決まるわけではないのです。社長が我が社のルールはこれだ!と言ったところで社員がどう判断するか。何かメッセージを伝える時、プレゼンテーションする時、コミュニケーションを取る時、脳の構造を理解しないといけません。

脳の進化、歴史を踏まえて良い悪いではなくこのような信頼関係で私たちは生きているということを深く理解しなくてはいけません。例えば、初めての集団を紹介するときや新しい組織にアプローチする時は、ルールや常識を共有していないといけないのです。

ゆっくりと溶け出し、バブル化、レイヤー化する世界。正しさ、事実、データは通用しない、、、話を聞く気ない、信じる信じないはそれ以前に結論決まっている。どんなに強いメッセージを発していてもブランドの佇まいとして生存本能で拒否をされてしまったら、説得不可能なのです。努力で信頼は獲得できません。コミュニティを形成する時、そして維持する時、発展させる時、こういった背景を押さえておかないといけません。企業の在り方、ブランドとしてのメッセージ、プロダクト・サービスのローンチ、全てに言えることです。

コミュニティは生き物のように固定化されていません。周辺部分はウネウネと常に動いているものなのです。テンプレでは解決できない課題がここにあります。

PS)

男性性・女性性の視点でみてもおもしろいですよね。男は正しい、納得いったなどを気にする、、女の人は既存ルールを自然と受け入れる。

ルールを安定させるための女性性、壊すための男性性、、、どちらも必要。女性性は秩序を保つのに良いけど、マイルールの強い男性性は秩序を打ち出す役割なのです。

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