Mouse on House,House on Mouse

「で、なんなの?」

人と話すとき、文章に触れるとき、食を愉しむとき、音楽や映画、絵画などの芸術を鑑賞するとき、私たちはどうしても「答え」を求めがちです。なにが言いたいのか、どんな主張があるのか、どんなメッセージがあるのか、ついつい「答え」を欲する癖がついています。それが普通だと思っています。そう、無自覚に。

テーマ設定がしっかりなされ、主題やメッセージのはっきりしている映画、書き手の主張のはっきりした文章、ありふれた歌詞と心地の良いメロディー、解りやすい構成の楽曲、、、これらのフォーマットはアメリカ的なるものによる影響が大きい。ここで指すアメリカ的なるものというのはあらゆるバックボーンの人にわかるように作らねばならないとされている流儀を意味しています。この流儀を非難しているわけではなく、私たちの耳や舌や目がこのフォーマットに支配されがちだという話です。これは健全なことでしょうか。偏ってはいませんか。

レオ・シュトラウスの「自然権と歴史」を読むクラスを受講しているのですが、レオの著書はどうにも読みにくい。それは先ほど挙げたように私たちがアメリカ的なるものに慣れ親しんでしまっているからというのが大きい要因としてあるようです。レオ・シュトラウスの書き方の流儀は中心を描かずに周りを描いていき、中心をぼんやりと浮かび上がらせ後は読者に委ねるというもの。これはレオに限った書き方ではないようです。

“わかりやすさは悪であり、罪である”

と考え、本当に大切なことは言葉で書いてはならないという一派がいるそうで、レオ・シュトラウスに限らず、ハイデガーやアーレント、ローゼンツヴァイクなどの系譜にある書き方のスタイル。言いたいことは言わず、周りを描いていく。描いていることは自分のメッセージではなく、読み手に委ねるという手法ですから、読み手のリテラシーを問われます。わかりやすさに慣れてしまっていては難解に感じるでしょう。ハイデガーなんかは当時世界で二人しか解らないと言われていたそうで、そんな時代背景に想いを馳せると今の時代はだいぶわかりやすいもので溢れています。直接的な主張をせず、周りをぼんやり描いて相手に委ねるという書き方は、、、

「知性あるあなた方ならわかりますよね」

というスタンスだそうで、多くの前提条件や背景知識、記号運用の軽やかさを必要とします。こういった流儀に慣れていないからチューニングする必要があるのですが、どうしてこういった本が後世にまで残っているのか。そして、読みなされているのかというのは意義深いことであります。ある種のレガシーとして残っていると思うのですが、こういったスタンスで世に発表されることはもうないでしょう。その意義は私たちに深い問いかけをしてきます。

テクノロジーの発展でたくさんの恩恵を受けています。利便性も高まりました。一方で、失われたものもたくさんあるはずです。目まぐるしく移り変わる記号の中で私たちは一体なにを選択し、解釈をしていったらいいのでしょうか。

最後に、「自然権と歴史」からこんな一節を、、、

善きデーモンであれ悪しきデーモンであれ、それに関わりなく汝のデーモンに従え

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