Parallel Paradox

世界はすべて記号化されている。

記号化された世界に囚われず、むしろ利活用して軽やかに人生を運用していくことに意義があると私は考えます。

私たち自身が世界を認識している以前に、「私たちと世界」はただそこに存在するからです。ですが、存在を無視して過去の恐怖や未来への不安に囚われていると不自由さを感じます。同様に優越感や全能感もレンズを曇らせます。ただの記号に過ぎないのに、です。肉体的な不自由さ、精神的な不自由さだけでなく社会的な不自由さ、そして魂の不自由ささえも引き起こすと私は思います。

窮屈を感じながら誰かの人生を歩んでいるうちに、本来の人間としての生き物としての感性が失われ、実態を喪失してしまいます。リアリティのない虚像にまみれた営みや人生には美しさを伴いません。何とも言えない息苦しさが社会全体を覆っていることを感じる人も少なくないでしょう。YDKなんて言葉が日の目を見ているのは微かな希望でしょうか。それともシニカルなメッセージでしょうか。

一方で、エネルギーに満ち溢れ、生き生きとした人生を歩んでいる美しい個人や組織が存在するのもまた事実です。決して数は多くないので、マイノリティであることは否めませんが、オレはオレという力強い主張と周りからのリスペクトを同時に併せ持ち、圧倒的な存在感と影響力を発揮しています。

両者の違いは何でしょうか。地位や名誉、肩書きでしょうか?経済力でしょうか?人間性でしょうか?

いいえ、私はそう思いません。違いはシンプルです。魂の声に従って、使命を持って手段と目的が一致して活動しているかどうかの違いだと私は考えます。

かのハンナアーレントは仕事を3つの区分に分類しました。労働(labor)、仕事(work)、活動(action)の3つです。「労働」は生命の必要物に支配された消費的価値を生むことであり、命ある以上、完全に無くすことはできません。「自由は必然の果実(freedom is the fruit of necessity)」とあるように、労働はnecessityに従属しているのです。一方で「仕事」は作品を生み出す制作活動や芸術を作り出す手仕事のことで、必要に迫られているわけではないという特徴があります。私たちが普段使う「仕事」のシニフィエはアーレントの「労働」にあたります。

そして、「活動」は一人でできる「労働」や「仕事」と違って多数性を条件とした営みのことです。多数性を条件にした上で、一人一人固有のユニークネスを発揮する…人格的アイデンティティを明確にし、世界の客観的現実性(リアリティ)を持っていることこそがアーレントの定義する「活動」なのです。みんな違っていいじゃない!という風に他者も認め、公的領域である言論の「テーブル」に自分として乗ること。本当の意味でのコミュニティ形成はこのような「何であるか」「誰であるか」を相互に示し会う「活動」に当たると私は考えています(「労働」や「仕事」の手段としてコミュニティ形成を試みている人を見かけますが、アーレントを引用するまでもなく無理がある行為であることをここで強く主張しておきます)。

アーレントは現代社会において労働が仕事や活動の領域を侵食していると問題提起をしました。人間は自ら動物へと退化しようとしている、と。平日勤務をし、週末は文化的な活動に勤しむライフスタイルを動物的退化と捉えるかどうかは議論が分かれる所ですが、大切なことは無自覚、無思考で誰かのレールに乗って命を消費してしまう危険性に気づかないことです。記号の支配にあっているからです。

私たちは思考することができますし、始める自由も併せ持ちます。何より、魂を解放させ、自分のアイデンティティを明確にし、卓越性を発揮させる義務があると私は考えます。そのためには、記号化された世界に囚われないこと。そして、ウィットに富んだ自分だけの記号を運用して、世界を紡いでいける勇気と希望を持つことからだと思います。今この瞬間から私たちは自由になれるのです。

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